野村です。これで、現在まで到達しました。DXとどう向き合うべきでしょうかね?
1. 2020年代:AIx時代の到来と日本の「構造的フリーズ」
私たちは今、2020年代、DXという言葉すら陳腐化する時代に生きています。
世界では「AIx(AIトランスフォーメーション)」や「Digital-Physical Complex(デジタル物理複合体)」が新たな潮流となり、AIが物理世界に介入し、「いかに稼ぐか」というビジネスモデルの再構築が始まっています。
このグローバルな変革の波に対し、日本の情報システム部門は、過去の歴史によって培われた「業」の総決算として、「構造的フリーズ」、すなわち「手も足も出ない」という絶望的な現実に直面しています。
なぜなら、AIxが求める「信頼できるデータ連携」と「アジャイルな試行錯誤」は、日本の情シスが過去50年間で徹底的に排除してきたもの、そのものだからです。
2. 「業」の結実(1):ランサムウェアという必然の悲劇
2010年代に情シスが選択した「ローカルファイル保存の黙認」と「中央集権的なハブアンドスポーク・ネットワーク」という構造は、2020年代に入り、最悪の形でその脆弱性を露呈しました。それがランサムウェアです。
- 自己選択した脆弱性: クラウドの多層防御を自ら放棄し、データが分散したローカルPC環境を温存したことは、攻撃者にとって最も侵入しやすく、最も身代金を要求しやすい環境を提供しました。
- 閉鎖空間の幻想: 「強固なセキュリティに身を委ねた」はずの中央集権的なネットワークは、一度侵入を許せば(例えばVPN機器の脆弱性を突かれれば)、瞬く間に被害が全社に広がる単一障害点(Single Point of Failure)と化しました。
情シスが「安定」と「安全」のために行ったはずの苦渋の選択が、皮肉にも「最も不安定で、最も危険な結末」を招いたのです。これは、1970年代から続く「無謬性の文化」の、必然的な崩壊でした。
3. 「業」の結実(2):なぜ「ExcelマクロとPPAP」がやめられないのか
現代の日本企業において「完全なムダ」として非難されながらも、なぜ「Excelマクロ」と「PPAP」がこれほどまでに根絶できないのでしょうか。それは、これらが過去の「業」のすべてを体現する、文化的象徴だからです。
- Excelマクロがやめられない理由:
- ブラックボックス化(1990s): 業務プロセスと一体化したマクロは、もはや誰も解析できない「レガシーシステム」そのものです。
- 技術伝承の断絶(2010s): 現場も情シスも、そのマクロを修正・Webアプリ化する技術を持っていません。
- ローカル依存(2010s): 「セーブが当たり前」の文化が、クラウドでのデータ連携を拒絶します。
- 「怒鳴られる恐怖」(2010s): 情シスは、この「動いているマクロ」を止めることで現場から受ける非難を、自らの破滅以上に恐れています。
- PPAPがやめられない理由:
- 責任回避の論理(2000s): PPAPは、セキュリティ対策としてではなく、「パスワードを送った」というアリバイ(証拠)を残すための、ウォーターフォール的な責任回避プロセスとして完成しています。
- 「無謬性の文化」が生んだ「奢り」: この責任回避の根源には、1970年代から続く「我々のプロセスは完璧である」という「無謬性の文化」があります。この信念が、2000年代には「プロセスを実行した」という形式主義的なアリバイ作りに転化しました。
- コストの外部転嫁: この「プロセスは完璧」という信念が、「私達のファイルは安全なのだから、ZIPを解凍して使いなさい」という、送信側の奢った態度を生み出します。受信側は、それが「爆弾」(マルウェア)なのかどうか判断できないため、サンドボックスでいちいち解除するという、一方的でムダなセキュリティコストを負担させられています。
- 「ムダ」の容認(2000s): 主管部がROIを無視した投資を許容してきた結果、情シスもまた、この非効率なプロセスを「ムダ」として指摘する権限と動機を失いました。
4. 結論:DXの壁の正体と「業」の清算
情報システム部門は、現代において「DXの最大の抵抗勢力」と呼ばれています。しかし、本連載で明らかにしてきたように、彼らが「抵抗」しているのではなく、過去の歴史の連鎖によって「抵抗せざるを得ない」構造に縛り付けられているのです。
- 「無謬性の文化」がアジャイルを拒み、
- 「技術の外だし」が内製力を奪い、
- 「WFへの回帰」がプロセスを硬直化させ、
- 「ローカル依存」がクラウド化を阻む。
この状況下で、情シス部門にDX(プロフィットセンターへの転換)を背負わせること自体が、構造的な無理であり、過去の「業」を清算しないまま、さらなる重荷を負わせるという、あまりに酷な仕打ちです。
真のDXの第一歩は、生成AIの導入や新しいSaaSの契約ではありません。 それは、1990年代から2000年代に「コスト削減」と「リスク回避」の名の下にIT部門の未来を切り捨てた、過去の経営判断の誤りを組織として認め、謝罪することです。
そして、情シスが背負わせてきた「レガシーという墓場の維持管理」という重荷を解き放ち、彼らが再び技術者としての誇りを取り戻す環境を保証すること以外に、この「業」を断ち切る道はないのです。
5. 結び:未来の「業」を生まないために(問い)
本連載で描いてきた日本のIT部門の「業」の歴史は、「正解とされたものが、次の時代の負債となる」という悲劇の連鎖でした。
- かつての「完璧な計画(WF)」は、現代の「変化への抵抗」を生みました。
- かつての「コスト削減(子会社化)」は、現代の「技術的空洞化」を生みました。
- かつての「安定への執着(ローカル保存)」は、現代の「ランサムウェア悲劇」を生みました。
ここで、私たちは最大の問いに直面します。
今、私たちが推進している「DX」や「AIx」は、「次の情報システムの悲劇」を生み出しているのではないか?
世界は常に運動し、変化し、前進しています。もし私たちが「業」の本質、すなわち「経営の判断ミスを、技術部門の責任に転嫁する」という構造的な問題を清算しないまま、単にツールを入れ替えるだけで満足しているのなら、必ず同じ過ちを繰り返すことになるでしょう。
「どうせまた、情シスみたいになるんでしょ?」 そのように考えるのが自然です。
私たちは、この「業」の連鎖を防ぐために、DXという変革そのものに、何を実装すべきかを真剣に考えなければなりません。それは、「失敗を許容する文化」かもしれませんし、「技術者のキャリアパスの再定義」かもしれません。あるいは、「変化し続けることを義務化するプロセス(強制的な式年遷宮)」かもしれません。
この問いへの答えを見つけることこそが、私たちが背負う「業」に対する、唯一の向き合い方なのです。
